私たちの「見えない仲間」を考える 〜日本における外国人児童教育の現状と今後〜

はじめに〜「見えない仲間」に目を向けてみる〜

教育に関心を持つ様々な学生や社会人の方々と関わる機会を得て話をすると、教育という分野における多数派が「国内の教育」(日本人を対象とした)と「海外の教育」(途上国における教育支援など)の二大軸から成っていることに気が付く。そう考えたときに私が問題意識を持つ「日本における外国人児童(*1)の教育問題」というのはその狭間に位置する分野であり、それを話題にしてもあまりピンとこない、もしくは話を聞いて初めて意識するというケースが往々にしてある。この傾向は国内の政治においても同様で、グローバル化や移民政策が活発に議論の的となる中、既に在住する外国人の生活、ましてや彼らの子供の教育が同レベルで語られることは稀である。その存在はもちろん認知しているし、街を歩けば日常的に彼らの姿を見ることができる。しかし、彼らが置かれる状況までには目が向かない。メディアも取り上げない。それが国内における外国人の子供たちに対する意識である。私が表題に「見えない仲間」という言葉を添えたのはそのためである。見えているけど見えていないというすれ違いのニュアンスがこの言葉には含まれている。ここでは初めてこの問題に触れる人にも馴染みやすいよう簡潔に彼らの置かれる状況を紹介しようと思う。この記事によって「見えない仲間」が多くの人にとって市民生活を共にする真の仲間に変わることができれば幸いである。

*1 ニューカマーや日系人、移民、在日系、海外につながる子供などという呼称、分類があるがここでは便宜上、外国人児童や外国人の子供と称する。

今、外国人の教育政策を考える必要性

今、外国人児童の教育問題を我々が考えなければならない理由は何だろうか。それはやはり日本の移民政策に伴う現実的な側面に見出される。ドイツを始めとした欧州先進国で移民の受け入れが広がる中、日本政府も少子高齢化に伴う労働力減少を睨みながら、長期的な移民の受け入れを計画しており、今後、益々海外からの移住者が増加していくことが予想できる。さらに1990年、入国管理法が国内の労働力不足解消を目的に緩和された際に海外から移り住んできた世代(主に日系人)が家族を持ち、住居を構え、日本に帰化、もしくは永住することを決断し始めている。移民受け入れの問題には賛否両論があるが、常に意識されるべきは移民とその家族の生活をどう保障するかという視点である。90年に大規模な受け入れ緩和を行った際には劣悪な労働環境や住居問題、行政手続き制度の対応不足、そして教育の欠陥など様々な面で受け入れの土壌が未整備であることが問題となった。そのような悪環境の中、仕事があるという希望の下に何とか生活を繋いできた移民達であったが、2008年のリーマンショックの際に大規模な派遣切りの対象となり、路頭に迷うことになった。その際に日本政府が取った対応は帰国の費用を負担する代わりに数年間の入国を禁じるという言わば「追い出し政策」であった。「私たちは使い捨てですか?」それが仕事も保障されず、日本人と同様の生活インフラも得られない、子供の教育も十分に与えられなかった外国人が日本を去る際に悔しげに述べた言葉である。あれから20年経過し、行政も急速な制度調整を進めてきたが、教育のみに着目したとしても十分な対策が講じられているとは言い難い。受け入れる環境が準備されないまま、「労働力」の獲得という無機質な目標を不用意に遂行するという過去と同じ過ちは避けなければならない。今後、さらに身近にそして長期的に共に暮らしていく「仲間」としての外国人をどう社会に包摂し、国内のグローバル化に目を向けられるか、豊かな共存関係を築いていけるかが日本の将来を切り開く上での大きな課題となる。その上で「教育」は移民にとって最も大きな関心事である。果たして自分の住むこの国は自分の子供を守ってくれるのか、それとも排除してしまうのか。文化や産業、政治など様々な面で国際社会をリードする一国家として、自国民であろうとなかろうと国内に暮らす全ての子供達の未来と人権を保障できてこそ、成熟した国家と呼べるのではないだろうか。

 

日本における外国人児童の教育問題とは

.人権としての「就学義務」が保障されていない現状

外国人児童の教育問題を考える上で何よりもまず念頭に置かなければならない点が「人権」としての教育を受ける権利の保障である。現在、文部科学省の見解では日本国は外国人児童に教育を受けさせる義務を負っていないとしている。それが依拠するところは日本の義務教育が「日本国民の育成」という理念に導かれて学習指導要綱などの遵守におよんでいることと義務教育学校が外国人学校を含まない学校教育法第1条に定められた学校を指していることであるとされるが、日本は公に『国際人権規約』(1979年)や『子供の権利条約』(1994年)など「一定年齢の子供に就学義務の適用」させることを条件に含む国際条約を批准しており、現状では規約を批准しながらも実行していない状況にある。日本政府は義務ではなく、権利を与えるという処置で問題を保留しているが、この二つには大きな違いがあり、就学が単なる権利の範囲に留まれば行政のケアの質に影響が及んでくる。例えば、文科省は市町村の教育委員会に就学適齢期の外国人児童が移り住んでいた際に就学の機会を逃さないよう各家庭に「就学案内」を発送することを指示しているが、義務教育ではないという前提のもとに案内を送らない、または発送しても子供の家庭側から回答がなければ再通知などの働きかけは行わない、複数言語での案内表記をしない(保護者が言語的な問題で内容を把握できず就学が保留になるというケースもある)というような怠惰なフォローアップ体制がまかり通ってしまう。それを防ぐため、アメリカ、フランス、ドイツなどの国々は早期から外国人児童の就労義務化に踏み切っており、それを土台に教育環境の整備を行うという過程を辿っている。今後、外国人児童の教育環境を確実に保障していくためには義務という強制力なければ、行政は重い腰を上げない、学校もついて行かない。その意味で、国内の全ての外国人児童が「人権」としての就学権を確実に行使できるよう義務教育の理念と法制を抜本的に見直していく必要があるだろう。

2.学ぶ場を失う子供〜公立学校と外国人学校の狭間に追い込まれる子供たち〜

現在、日本に移住した外国人児童には教育を受ける手段として主に二つの選択肢が与えられる。

一つは日本の公立学校で日本人と共に学ぶという選択だが、そこには大きな二つの壁が立ちはだかっている。一つは言語的なハンディキャップと国語などの日本独特の科目の難しさなどの「学習の壁」。もう一つは文化、人種の違い、言語的コミュニケーションの困難さからクラスメイトと打ち解けられず、孤立してしまい、深刻な場合にはいじめられてしまうなどの「コミュニケーションの壁」である。これらの壁に関して私自身が出会った外国人生徒の体験を紹介したい。私が生まれ育った静岡県浜松市は大企業の本社が多いという土地柄、外国人労働者特にブラジル人が非常に多いことで知られている。ただ、外国人人口が多いからといって彼らの子供達の学ぶ境遇が整備されているかと言えば、残念ながらそうではない。私の小学校にはHというブラジル人の女子生徒が通っていた。Hは本来、明るく社交的な性格を持っていたが、授業についていけず、努力はするものの常に周りの生徒に遅れを感じ、その苦しさから徐々に明るさを失っていくようになった。その不安を担任の先生に伝えようにもそれを上手く表現できない自分自身とその感情を的確に捉えられない教師に苛立ち、かんしゃくを起こすような言動が目立つようになった。泣き出してしまうことも頻繁にあった。そのような感情表現は逆の効果を生み、クラスの雰囲気を乱す問題児として担任教師から、怒鳴られる、罰を与えられるということが増えるようになった。周りの生徒にとってもそんなHの存在はやはり異質に映ったようで彼女は次第に孤立していくようになった。そして彼女はある日、突然、どこかに転校していってしまった。

私自身、アメリカの小中学校に5年ほど通った経験があるが、当初、英語が全く理解できなかった自分にとって異言語による授業は意味のない言葉をただひたすらノートに書き殴る行為(文字を書くというより記号の羅列を模写するという表現の方が適切かもしれない)に過ぎず、強烈な劣等感と不安に襲われたのを覚えている。私自身は両親が英語を話せたということ、周りの友人の献身的なサポートがあったこと、補助教員が学習を個別支援してくれた等の豊かな社会関係資本に支えられ、何とか通い続けることができたが、親も日本語が話せない場合が多く、異質なものを倦厭してしまう文化の中で生活する外国人児童が持つ社会関係資本の貧しさと国際教室や放課後学習支援、補助員などの支援制度が不足しているといったインフラ面での不足に直面する外国人の子供達にとって公立校での就学は非常に困難なのが現状だ。

そのような弊害を勘案した際に選択されるもう一つの選択肢が「外国人学校」(多国籍の「国際学校」と単一国籍の「民族学校」が存在する)に通うというものだが、上記のように外国人学校は義務教育学校(学校教育法第1条に定められているため「一条校」と呼ばれる)として認められていないため小中学校卒業資格も国からの補助金も得られない環境で、私塾という形で運営することが多い。それゆえに日本の私立高校と並ぶ程の高額な学費を設定する場合がほとんどである。移民の多数が不安定な派遣労働者である現状の下では、給料のほぼ全額を教育費に費やさなければ賄いきれないということが往々にしてある。各自治体によって「各種学校」という位置付けが与えられるケースもあり、その場合は市町村の予算から補助金を受けることができるが、その金額も私立学校補助金に比べると5分の1程度であり、赤字ギリギリの経営と学費の高額化は解消されない。また、学費はまかなえても、通学できる範囲に自分の国籍にあった外国人学校がない(それでも片道一時間以上かけて通学する外国人児童などはざらである)。もしくは16歳以下の全日制イスラム学校のように自分のナショナリティーに該当する外国人学校が国内に存在しないなどの物理的な学校の偏在、不足も深刻であり、高額な学費と共に外国人学校という選択肢を閉ざす大きな要因となっている。このような複数の弊害に阻まれ、最終的に学ぶ場を見失った子供は自宅での自主学習を余儀なくされてしまう。社会から閉ざされ、日々、自宅で一日を過ごすという生活が子供たちの人格形成や社会への適合、さらには将来設計にあたえる影響は計り知れない。これらの不就学児童の正確な数は文科省も把握できていないが、御茶ノ水女子大名誉教授である宮島氏の推測によると初等教育年齢にある外国人児童のおよそ5%から一割がそのような状況に置かれているという。これは日本の不就学率の0.1%と比較すると異常な数である。この社会から阻害された子供たちにいかにして豊かな教育を提供できるか、それと同時に学校に通いながら大きな壁に立ち向かっている子供がドロップアウトしないようにいかに支えていくか、我々はこの大きな問題を一刻も早く解決し、外国人の子供たちが各々の望む未来を描けるような教育環境を整えていく必要がある。

MOOC学習記 画像 上田君

 

                                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 (Written by 上田椋也)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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